Body & Soul
ヨガ、素潜り、フリーダイビング、スィム、ボディワーク、そしてちょっぴりアートな毎日。
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はやかけん


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はやかけん?初耳でございます。
SUGOCA?すごか?
何がそんなにスゴいのでしょうか。ドキドキして眠れません。
エスカレートしてますね~
んとなく、どれも福岡のICカードのように聞こえます。

あ、福岡県人が二人いたわい。
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市Q蜂ヨン
一ヶ月以上前に購入した、村上春樹氏の「1Q84]。
読むのが怖くてまだ一回も表紙を開いていません。
周りの他の本をウロウロ読んでいます。
最近、夜中に「1Q84」がぼーっっと光りだすんじゃないかと思うくらいの存在感で私の意識にのしかかってきます。
ヘンなの。

なぜ怖いのか?
もし、読んでつまらなかったらと思うと、その時のがっかり感を思うだけで、心臓がばくばくします。
逆にすごく面白かったり、大きなインパクトのある本だったら?
自分にとって彼の本は、ALL or NOTHINGです。

その感じを例えていうなら、
大昔、何年も何年も行きたくて行きたくて思い焦がれて、やっとのことで行くことが出来た八重山。
その時、2週間ほど滞在したのですが、
旅行中、ずっと心と身体がふわふわと宙に浮いてて、なんか、大昔の、フィルムに傷が入ったようなセピアの映画の中に紛れ込んだ自分だけが天然色みたいな、不思議な気分になってたことがありました。
微妙にまわりと自分の間に違和感があり、薄い膜に覆われているようで、そこにいる実感がない。
思い焦がれて楽しみにしすぎてた場所に来られたことが、ずっと夢の中にいるような気持ちにさせたのかもしれません。。

もし、「1Q84」がインパクトのある本だったら、そんな気持ちになりそうな気がする。
あぁ、だからまだ読み出せない。
もう少し、寝かせて熟成させておこう。
そのうち、その本、夜中にぶるぶると震えはじめるかも!?コワイィ。


ところで、同じ村上春樹氏原作の本「ノルウェイの森」映画版のキャストはこんな。
主役は、松山ケンイチ
緑が、水原希子
直子が、菊地凛子。
監督は、「シクロ」、「青いパパイヤの香り」のトラン・アン・ユン。
どちらも大好きな映画です。あの頃、トニー様は若かった。。
アジア特有ののねっとりとした湿気のある空気感、そこはかとない官能性。静けさの豊かさ。陰影のもつ饒舌さ。

原作本は出たばっかりの頃(もう20年前ですね)緑と赤の上下本を買いました。
新宿の紀ノ国屋でその本を手にとって、レジに向かおうとしていた時、話し掛けてきたのが、当時絵の学校でクラスメイトだった、O山田K吾くん。音楽はやってたけど、まだ無名だった。
彼に「“ノルウェイの森”なんて買っちゃって~」と言われたのを今でも思い出します。
ほら、メジャーなものに対して斜に構えるのがカッコいいと思う時ってあるじゃないですか。特に芸術系の学生はそうですね。
その当時、「ノルウェイの森」は立派なメジャーだったと思う。
彼女(同じクラスメイト)と一緒だったのですが、(まだKhミ Kriィsanではありませんでした)その彼女も、いまや割と有名人です。

って、話がずれましたね。ごめんなさい。
その「ノルウェイの森」。
何回読み返したでしょうかね。
ものすごくありきたりな言い方ですけど、「青春」だったよなぁ。ってしみじみ思います。

主役の松山ケンイチくんもいいけど、私は森山未来くんでみたかったなぁ。
ワタシにとって未来くんは「青春」の苦悩と、無謀と可能性の象徴なのです。
急に成長しちゃった長い手足をもてあまして、ギクシャクしちゃっているような。。
#彼はダンサーでもあるので、実際はまったくギクシャクしてませんけど。

この映画は、勇気をだして必ず見に行こうと思います。


ところでどなたか「1Q84」読んだ方はいる?


今日の一冊はどちらかにしようか迷いましたが、
「ノルウェイの森」にします。
(後ほど追記します)

壁と卵
最近、自分の中の「言葉」方面のチャネルが開いているようで、そう言うときには、好むと好まざるに関わらず、そちら方面の情報がどばどばと入ってきます。
今日昼間、そのチャネルから何かM15星雲からの電波が入ってくるみたいにして(!)入ってきて心にとどまったのが、
「村上春樹氏のエルサレム賞受賞演説」。

帰宅して、Googleで、「村上春樹 エルサレム演説 全文」と入力してしまい、「あ、演説じゃなくて、スピーチね」と一人突っ込みを入れながら検索して出てきたのがこちら。
はてな匿名ダイアリーさんのブログ

英語の原文はこちらにあるそうです。
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
作家の村上春樹氏が、「エルサレム賞」というイスラエルの文学賞を受賞し、その授賞式でのスピーチです。


自分はまったく政治的な人間ではありません。
が、割と、卑怯ではなくまっとうに、正しく生きたいと思っています。
一方で、そのような生き方=政治から意識して離れて生きること。はいけないことなんじゃないかと、ちょびっとずーっと思ってました。
親族とか、周りの人間に、時代性もあるのでしょうが、それ的な人が何人かいたものですから,、なんと言いましょか、そう言う環境にない人と比べると意識せざるをえなくてかえって距離を置く感じかな。

そして最近は特に、そう言う生き方に後ろめたい気がしてた。
だって、世界は見れば見るほど、知れば知るほどあまりにも悲惨だから。。。
でもね、このスピーチを読んで、今の自分のこの生活をちゃんと営んで行くことがもしかして
いつか、何かの力になる時が来るかもしれないと思った。

村上春樹氏がある何かのエッセイで書いてた言葉を思い出しました。
うろ覚えですけど。

(村上氏が選挙の投票に行かないことについて)
「いつか、投票に行く日が来るかも知れない。それはまるで、伝説と言われてた「ビッグウェンズデー」の大波が本当にやってくると知った時、サーファーたちが、立ち上がり、ボードを持ちそのビーチに向かっていったように」。

もしかして「エルサレム賞」が彼にとっての「ビッグウェンズデー」なのかもしれないです。

私もいつか大波に向かう日が来るかも知れない。
その日まで、その時出来ることをすること。
毎日畑を耕すように。
それが大事な気がする。。

ここにも言葉の力がありました。
時間がある時によかったら最後まで読んでみてください。



======以下、上記の「はてな匿名ダイアリーさんのブログ」から引用======
※長いです


常に卵の側に

村上春樹


今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。


もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。



「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」



ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステム(The System)です。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。

昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。

味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。

父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。

エルサレム賞をいただき、感謝しています。世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。



追記:

いろいろ助言頂いたので、独立してノート( http://anond.hatelabo.jp/20090218122627 )を作りました。訂正や履歴についてはそちらに記述します。

ハアレツのコメントも別途のせてます( http://anond.hatelabo.jp/20090218205723 )

====以上引用終わり====
バガボンドーっ!
20081227224332

今年七月の式根島素潜り合宿で、メンバーを陸に釘づけにした、コミック“バガボンド”です!
帰ってきてからすぐに図書館で予約して昨日やっと順番が回ってきました。
ん?19巻セット?何巻まででてるのかしら?
読み終わっちゃったら続き誰か貸してクダサ~イ。

これで年末年始は漫画&○○三昧が決定でゴザイマス。
図書館バンザ~イ\(^O^)/
読書の秋だわ~
「今日の一冊」をたま~にここに書いているお陰で、よく訊かれるんです。
「毎日一冊、本読んでるの?」
まさかです。
自分で言うのもなんですが、本読むの、多分そーとー超速ですけど、さすがに毎日一冊は読めません。
中には数時間で読めちゃう本もあるにはあるのですが、やはり大体数日はかかります。
いつも十数冊の読むべき本が手元にあってそれを順繰りに、また何冊かをローテーションしながら同時に読んでってます。
そして仕事でも、たくさんたくさん文章を読みます。
媒体は新聞だったり、ネットだったり、雑誌だったり、書籍だったり様々なのですけど。

小さい頃から本や活字を読むのが大好きでした。
おこづかいはあまりたくさん貰えなかったですけど、親が超のつくほどの読書家で本だけはいくらでも買ってもらえました。それにはとても感謝しています。
そして中学生時代に出会った恩師。この先生に本を読む姿勢について多くのことを教えてもらいました。毎週一冊の本を読み、それについて読書感想文(!!)を書いて、それにコメントをもらうことにことによって。
その当時は交換日記をするように読書感想文を書いてた気がします。先生のコメントがいつも楽しみだった。
読書もやっぱり一つのコミュニケーションなのです。著者と読者のとの。

さらに「読書」は、字を学ぶことから始まり、その後、意識して会得していく技術なのだとその時知りました。
その若い時にそのような経験ができたのは、その後の読書人生にとても大きなプラスになったと思います。

世の中には出会う価値のあるたくさんの優れた本があります。
それを限られた人生で読んでいくには、読む速さというのも大事な気がします。
たくさんの本(新聞や、ネットすべての活字を含む)を読むのはテクニックです。もちろんそれは入り口に過ぎませんが。
自分は仕事で「も」たくさん読まなくてはならないので、それは切実な問題です。
そしてたくさんの文章を読んでいく中では、読むまでもない文章と言うのも存在するのも確かなのです。
読むべきかどうか、自分は最初の数ページ&目次で大体判断します。本の場合。
BLOGとかネットで読む場合は、最初の数行でしょうか。

例えば、「美しい」という言葉が書いてあるとします。
その書き手が「美しい」というその言葉にどんな意味を持たせて書いているのか、ひいては「美」に関してどんな価値観をもって普段行動し、生きているのか、読み手はその言葉と作者の意識の距離感、文章、言葉の前後関係、行間から類推することで無意識に判断し、感じとって読み進めているわけです。
二つ以上の星の位置やその距離で今現在の場所を知るように。
その星の数が多いほど、より正確に現在の自分の場所を知る事が出来るわけです。
たぶんその星をたくさん提示できるのが優れた書き手な気がするのです。

でもたまにその「読む測量行為」を外すような書き手と言うのが存在します。表現する上での高度なテクニックとして意識的に外しているのではなく、ただ言葉に対して「ユルイ」だけなんだと思います。
そして他人に影響されたと思われる、唐突な言葉遣いが出てきたときには読み手は自分の場所を見失い、大混乱します。
そう言う文章に出会った場合、最後まで気持ち悪さのなかで読み進まなくてはならなくてとても疲れるし、読み終わったあとはそれが数分しかかからなかったとしても「時間を盗まれた」気分になることもたま~にあります。
最近は、そう言う本、文章は割と最初の数行でわかる事も多いです。あとは同じ書き手。

ある言葉について語るのだったら、それに関して、書き手は自身の問題としてその人生でその言葉について何をどのように引き受けているのか?をちゃんと示さなくてはなりません。
それが、書き手が読む側の時間を借りている以上、ちゃんと返さなくてはいけないある種の負債?道徳観??のような気がするのです。

秋です。良い本を読みましょう。
って、結論にも何にもなってませんが。。

ここまで、この本を読んで色々と思うところがあって書いてみました。
本を読む本 (講談社学術文庫)本を読む本 (講談社学術文庫)
(1997/10)
モーティマー・J. アドラーC.V. ドーレン

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70年代にアメリカの哲学者が書き、日本の哲学者が翻訳した本。
「読書とはコミュニケーションである」

読書の技術の習得について4つの段階に分けて具体的に書かれています。
いわゆるハウツー本とはまったく違いますが、読書をはじめ、「他者とのコミュニケーション」についてとても多くの示唆がありました。


・・・・って、ここまで書いて気が付いた。。
ここまで読んでくれた人はいなかったりして。。。愕然、激汗、卒倒。。

そんなこと言ってる間に自分の文章どうにかせぇと言う感じですね。自爆=33
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